4.碑銘彫刻師「宮亀年」と「山崎園」の開業
5.宮亀年と 北鎌倉「円覚寺」

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4.碑銘彫刻師「宮亀年」と「山崎園」の開業



温泉旅館「山崎園」の創業者は、明治期に活躍した碑銘彫刻師 「宮亀年」(みやきねん。18451918)である。

 

碑銘彫刻師とは、石碑に碑文(文章)を刻むことを専門とする石工である。

江戸時代、人の死後に墓の他に碑も建立することが盛んになると、それまでの「奉納」「奉献」「寄進者名」「紀年銘」等の文字だけでなく、揮毫された文も刻されるようになった。
その結果、筆跡を損なわずに文字を彫刻する技能が求められるようになり、「字彫り」を専門とする石工、「碑銘(名)彫刻師」とよばれる人々が登場した。

宮亀年(本名、本宮為吉)は、弘化2年(1845)、石工を生業とする家に生まれた。
「宮亀年」という名は、祖父である本宮勘兵衛が、天保年間にその功により小田原城主大久保加賀守から賜ったものとされ、以降、石工として家を継ぐ者がこの名を名乗るようになった。
為吉は、「三代目宮亀年」である。
明治時代に入ると、貴人・書家・政界財界の重鎮等による石碑建立が流行する。
文字を彫る職人が活躍する中、三代目宮亀年は、その卓越した技術により「名工」とよばれた一人であった。


明治42年(1909)、宮亀年は、仕事上の知人 大船の住人浅見喜兵衛から、「大船に鉱泉の湧き出す地があり、温泉地として利用するのはどうか」と話を持ち掛けられ、当時の深澤村村長 梅澤松太郎を訪ねる。
梅澤から「宮亀年が行うなら」と承諾を得、知人らから資金を調達し、翌43年(1910)2月に、地上権設定登記をする。
(田畑一千坪、山林三千坪を25年間借地するというものであった)
これが、温泉旅館「山崎園」開業の経緯である。
宮亀年は、同年6月には、それまでの住まい(東京向島)から、山崎へと居を移した。(届出は大正2年)
なお、彼の墓誌では「宮亀年がラジウム温泉を発見し、数千坪の荒れ地を開墾した」としている。

ちなみに、宮亀年と当時の江之島電気鉄道(現江ノ電)社長 雨宮敬二郎とは二十年あまりの付き合いがあり、彼の病気見舞いに行った際、この温泉旅館経営の話をしたところ賛意を得たため、喜んで帰宅したと伝わる。
(宮亀年は、雨宮の死後、その墓誌銘を刻んでいる。)

山崎園の経営状況は、彼の墓誌によれば「繁栄セリ」であるが、正確なことは不明である。
大正3年(1914)に綱島(現横浜市港北区)に鉱泉が発見され温泉旅館が建つと、次第に客を奪われたという。

大正5年(1916)頃、各札所のご詠歌・弘法大師像・寄進者等を刻んだ「四国八十八ケ所の札所碑」をつくり、山崎園から天神山の山頂にかけて「霊場めぐり」として配置したのは、集客の意図が大いにあったに違いない。
発願人は、深澤村村長 梅澤松太郎と宮亀年であり、補助者に19名が名を連ねている。
八十八の石碑に、それぞれ寄進者をつのり、石碑を刻み、山上まで配置するこの作業は、大事業といえよう。

既に70歳を越えていた宮亀年は、経営状況や自身の年齢を意識し、この時期に東京の鏑木銀次郎という人物に経営権を譲ったとされる。
(書類上、地上権が譲渡されたのは、彼の亡くなった後である)

大正7年(1918)5月8日、三代目宮亀年は、七十四歳でその生涯を閉じた。



5.宮亀年と 北鎌倉「円覚寺」

山崎園は現在の鎌倉市山崎の天神山のふもとで営業したのだが、その天神山の山頂に鎮座するのが「北野神社」である。
社の創建は古く、鎌倉末期~南北朝時代に活躍した臨済宗の高僧 夢想疎石(むそうそせき)が、京都の北野天満宮を勧請したものと伝わる。
疎石は、鎌倉時代末期に、北鎌倉「円覚寺」の管長となる。鎌倉幕府滅亡により北条氏という後ろ盾を失った後も同寺の寺勢が保たれたのは、朝廷・足利氏双方に帰依された疎石の尽力によるものとされる。
また、円覚寺の塔頭 黄梅院(疎石の塔所)は、
貞治元年(1362)、荒廃していた神社を再建した。

このような経緯から、北野神社と円覚寺とのつながりは深く、祭神である菅原道真の没後千年にあたる明治35年(1902)の祭礼には、円覚寺から全山の僧が参列したという。

さて、現在北野神社境内にある、「天神山碑」(明治44年(1911)建立)には、その銘文の撰者として、円覚寺の管長を務めた 宮路宗海の名が刻されている。また銘文中には、氏子総代として村長 梅澤松太郎、碑を刻んだ者として宮亀年の名がみえる。
            天神山碑
            天神山碑銘
            天神山署名

碑の建立された明治44年は、山崎園の開業直後である。
山崎園開業を機にこの地域と縁を持った著名な碑銘彫刻家に、村長 梅澤松太郎が依頼したのではないだろうか。

また、宮亀年の墓誌には、「円覚寺管長の書による般若心経を精刻した」とあるのだが、こちらも山崎園跡地に現存する。(上部破損。もとは山中にあったと記録されている。)
この碑には、禅を世界に広めた明治~大正期の名僧 釋 宗演(しゃくそうえん)の名前が刻まれている。
          山崎園般若心経 (4)
          般若心経タイトル

      大正六年六月初一日」圓覺管長洪嶽釋宗演薫香謹書」「宮亀年尅」

          山崎園般若心経 (3)
           ?般若宮亀年尅
         (台座部) 「赤坂伝馬町二丁目 達島彌一」
          台座

山崎園経営を機に、深沢村、北野神社とつながりを持った宮亀年であるが、同時に円覚寺との縁も得たようである。
宮亀年は、その死後、円覚寺内に葬られている。

                                       →(3)につづく